北方城

別名-  付近住所 岐阜県本巣郡北方町北方 現在-
2007/9/15 碑・案内板アリ 日本城郭大系


北方頼興→
安藤(伊賀)氏
 北方城は、伊賀太郎左衛門光就が築城し、居城とした。
 光就の曾孫安東伊賀守守就は斎藤氏の滅亡後、織田信長につかえ、元亀元年(1570)6月の姉川の合戦、翌年の長嶋一向一揆討伐に参戦して大功をたてた。
 天正8年(1580)嫡子河渡城主尚就が甲斐武田氏と内通したという嫌疑で信長の勘気を受けたので、守就は北方城を出て武儀郡谷口村(現関市)に蟄居した。信長は守就の故領を収めて稲葉一鉄に預けた。
 天正10年6月2日織田信長が、京都本能寺で明智光秀に害せられると守就は一族旧臣を集め北方城に拠ったが、稲葉一鉄・貞道父子に攻められて落城した。(これを北方合戦という。)
 地籍図中の大井神社東側を西北の隅として、水路で囲まれた東西約160メートル、南北約340メートルの部分が北方城跡と推定される。
 北方城はいくつもの屋敷地を含みながら堀で周囲を囲まれていたと考えられる。城跡の内部は、更にいくつもの水路によって区分されており、防御性を高める役割を果たしたと推定される。現在の史跡は、本丸の跡の一部であると考えられている。